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はじめに

 家を出て二男と実家へ戻り、病床の父を看ながら友人の出版の仕事を手伝っていたが、いずれここも出なければと思っていた。
 そして新聞にM社の「寮母さん募集」という広告が出たのでとびついた。面接があり、でも十人の応募のところ三人を残したと言いながら、初めからくわしい内容のやりとりで、あれ、私に決めてるのか、と思わせる応対だった。
 しかし部屋を出たら次の人が待っていて、上品で、かしこそうで、美人で、趣味がよくて(こんな人がなんで寮母になりたいのかしらん)非のうちどころのないすてきな人であった。ああもうあかん、人事氏は私に決めていてもあの人を見たら気が変わるやろ、でもあの人なら仕方ない、面接に残してくれただけで満足しよう、とけろっとして帰った。
 しばらく何の連絡もなし、だめならポンと履歴書を返すだけでいいのにと思いながら、京都へモネ展を見に行き、ひとりであちこち歩きまわって帰ってきたら、息子がM社から話があると電話があったと言う。ここで息子に寮母に応募したこと、でもすてきな人がいたからきっと折角ですがと断わられるでしょ、要領は分かったからこの線で仕事を探す、と言ったところ、そんな仕事しかないのか、おれは反対。と不機嫌に二階に上がってしまった。夜、M社から、よかったら来てください、明日中に返事をいただけますかとの電話。私は場所も見たいし息子を説得したいから時間をくださいと言ったら、どうぞ息子さんもご一緒に見てくださいと言われた。
 息子を納得させようと思うのに逃げ出してつかまらず、とにかく寮を見せてと言ったら案内しますと言われ、会社へ行ったら折角だから健康診断を受けてくださいとのこと。まだお返事してないのですけどと言ったのに病院へ連れて行かれ、そのあと池田市石橋の寮を見学。案内の若い社員は一緒に会社へ帰るよう言われているからとまた会社へ行って、でも二十人の寮生は多いけれど何とかやれそうに思えて、現れた人事氏によろしくお願いしますと言ったら、手には入社用の書類を持っているという手際のよさで、一週間後に着任できますか。私は引き受けた仕事が残っているからとようやく二日間のばしてもらい、出版の仕事を優先。でも予定通りに運ばず見切り発車となってしまった。
 息子とは前日に話し合った。彼の気持ちは、母の面倒はみるつもりというのが底にあって、教師の免状があり簿記もやったのだから、それを役に立てることはできないのか、寮母というのははよ言うたら賄いのおばちゃんやろということだった。私はおそ言うてもおばちゃんですよ、あんたももの知らんね、五十歳すぎて働くとこは賄いぐらいしかないよ。でも人事の人が、主婦の経験と、親の気持ちで寮生の面倒をみてやってほしい、教師の免状があるのは好都合と言わはったんやから、ちゃんと役に立ったんやから。友達におかんは寮母と言うのが恥ずかしかったら言わんといたらええでしょ、私は前からこうしようと決めてたのやから喜んで行くよと言ったら、おれは恥ずかしいことない、分かったよ、せっぱつまってやけくそでそうしたのでないのやったら何も言わへん。と言って引っ越しを手伝ってくれた。

 ここから始まった寮母生活の記録は、友人の徳永さんが当時編集印刷に関わっていた、月一回発行の同人誌に寮母日記として掲載してもらった。
 書くことで発散、反省、発奮することになって有難いことであった。
 二十数年経って、終活のひとつとして本にすることを思いついた。何やかや言いながら私もよく働いたではないかというかなりの手前味噌ではあるけれども。

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